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スタッフに聞く

脊椎外科35年間をふり返って


大谷 清(おおたに きよし)
社会福祉法人村山苑 診療所長
村山医療センター 9代目院長


ohtani 村山医療センターの伝統、「高いプロ意識を持って脊椎外科領域の医療に取り組む姿勢」。当センターの伝統を創り、多くの医師を第一線に送り出してきた大谷清先生が遊びに来てくれました。


 昭和38年(1963年)、当時は腰椎前方固定術が盛んに行われていた。この手術は腰仙椎部の偽関節発生が大きな問題であった。私の恩師岩原寅猪先生より偽関節発生解明のために光弾性実験をやるように指示され、理化学研究所で光弾性実験を行い、その結果は英文で発表した。この研究がきっかけで脊椎外科へのめり込んだ経緯がある。時は昭和38年であった。

 当時、後縦靱帯骨化症が注目されつつあった。東大津山直一先生、慶大岩原寅猪先生、千葉大井上峻一先生の計らいで研究班をつくる話が浮上し、厚生省へ働きかけることが決まった。しかし厚生省は中々腰を上げず、やっとお墨付きがついたのは昭和50年であった。昭和50年、脊柱靱帯骨化症調査研究班が全国規模で発足した。同時に3先生の構想で脊椎外科研究会を創ることとなった。昭和49年(1974年)に脊椎外科研究会がスタ−トし、第1回研究会が千葉大井上峻一教授のもとで千葉大医学部臨床講堂で開催された。岩原寅猪先生が後縦靱帯骨化症の講演を行った記憶が残っている。

 昭和50年、脊柱靱帯骨化症調査研究班は東大津山直一教授を班長としてスタ−トし、国内のみならず米国、東南アジア諸国も調査した。その結果白人、黒人にはみられず、台湾人、韓国人には少数みられた。圧倒的に日本人に多く、欧米では後縦靱帯骨化症をJapanese diseaseと呼ぶまでになった。

 昭和41年3月、岩原寅猪先生は慶大整形外科教授を辞退し、国立村山療養所長に赴任した。私は首に輪を掛けられ岩原先生に従い、国立村山療養所に着任したのは昭和41年6月である。国立村山療養所は昭和20年、主として骨関節結核療養所として発足した。私が着任した頃は骨関節結核患者約300名が入所し、その約80%が脊椎カリエス患者であった。岩原所長より脊椎カリエス撲滅を指示され、週2日の手術日は1日3例、朝から夜遅くまで脊椎カリエス手術に追われ、腐心してきた。難治性孔例、広範囲骨破壊例、重度後弯例の手術は大変で、冷や汗を流す思いを何度も経験した。脊椎カリエスの約10%に脊髄麻痺を合併していた。脊髄麻痺発生は病巣が残存していることにあり、病巣郭清固定術は必須であり、病巣郭清によって麻痺回復が期待できた。

 岩原所長の構想で脊髄損傷その他の脊髄麻痺患者を扱う方針が示された。そのためにはリハビリが欠かせない。慶大リハビリテ−ション科の協力のもとリハビリテ−ション科の充実が進められた結果、脊髄損傷症患者約200名が入院していた。かつての脊髄損傷は労災事故による高所転落等の重度外傷が多く、殆どが胸腰髄損傷であった。私は損傷脊椎再建を目的とした脊椎固定術を積極的に行った。脊髄損傷に対しては、二次的脊髄損傷の拡大を予防するための姑息的治療であった。徳島大山田憲吾先生は「脊髄損傷の治療は脊椎損傷の治療であり、脊椎損傷の治療は脊髄損傷の治療でもある」と学会等で言ってた言葉を思い出す。今や、脊髄再生が可能で、臨床への応用も近づいてきた。脊髄損傷の根治的治療の確率に期待したい。

ohtani  時代の流れとともに脊髄損傷の発生も変わってきた。労災事故に変わって交通事故が頻発し、胸腰髄損傷から頚髄損傷へと変わって行った。さらに高齢化社会を迎え高齢者の軽微な転倒事故による急性中心性頚髄損傷が目立つようになってきた。この頚髄損傷は骨傷は不明で不全頚髄損傷であるが高齢者であるが故にADLの予後は芳しくない。また、この頚髄損傷に対して脊柱管拡大術が行われる傾向にあったが、我々の経験では麻痺回復の効果はあまり期待できない。

 脊椎カリエスは後弯を合併する。骨成長期罹患の脊椎カリエスは重度鋭角後弯となって脊髄麻痺を合併してくる。鋭角後弯合併の脊椎カリエス手術は極めて困難であり、病巣郭清すらおぼつかない。我々は重度後弯例にhelo-pelvic traction 装置を装着した。患者にとっては大変な装置であったが、麻痺合併を予防できる比較的安全な装置であった。1年以上装着した患者もいた。

 昭和44年(1969年)脊柱側弯症に対してHarrington手術を初めて試みた。当時のHarrington 手術は満足できる矯正効果は得られなかった。その原因はHarrington rodの欠陥にあった。私は脊椎カリエス等の前方進入の経験から昭和47年(1972年)に前方進入側弯矯正手術であるDwyer手術を導入した。昭和48年(1973年)Dwyer先生と一緒に手術する機会を得た。ZielkeはDwyer手術をより強固な金属に改良した方法を1975年に発表し、私は昭和57年(1982年)にZielke手術に変更した。術後10年以上経過したanterior instrumentation 手術151例中、直接検診できた59例の成績は平均矯正率63.4%、日常生活への影響は殆どない、結婚、出産については正常人と変わりなく、成績は良好であった。

 近年、脊柱側弯症矯正のためのposterior instramentの開発はめざましく、posterior instrumetation の矯正成績はすばらしい。posterior instrumentation が脊柱側弯矯正術の主流になってきた。anterior instrumentation は適応によってはshort fusionで良好な矯正が得られる利点はある。脊柱変形は脊椎外科の究極であり、奥座敷である。

   昭和38年に脊椎外科にのめり込み、現役を引退する平成10年までの35年間をふり返り、その道程は脊椎カリエスに始まり、脊椎・脊髄損傷そして脊柱変形の途を辿ってきた。かえりみて”よくやった”の一言に尽きる。勿論、私1人でできるものではない、多くの優秀な後輩に支えられてきた結果であり感謝する。


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